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<h2>ヤコブの手紙</h2>
<div class="chapter" id="1">
<h3 class="chapter">第1章</h3>
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<em>1:1</em>神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。
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<em>1:2</em>わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
<em>1:3</em>あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
<em>1:4</em>だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。
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<em>1:5</em>あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
<em>1:6</em>ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
<em>1:7</em>そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
<em>1:8</em>そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。
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<em>1:9</em>低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。
<em>1:10</em>また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。
<em>1:11</em>たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。
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<em>1:12</em>試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
<em>1:13</em>だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
<em>1:14</em>人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
<em>1:15</em>欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
<em>1:16</em>愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
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<em>1:17</em>あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
<em>1:18</em>父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
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<em>1:19</em>愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。
<em>1:20</em>人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。
<em>1:21</em>だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。
<em>1:22</em>そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
<em>1:23</em>おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
<em>1:24</em>彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
<em>1:25</em>これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
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<em>1:26</em>もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
<em>1:27</em>父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。
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<div class="chapter" id="2">
<h3 class="chapter">第2章</h3>
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<em>2:1</em>わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。
<em>2:2</em>たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。
<em>2:3</em>その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、
<em>2:4</em>あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。
<em>2:5</em>愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。
<em>2:6</em>しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである。あなたがたをしいたげ、裁判所に引きずり込むのは、富んでいる者たちではないか。
<em>2:7</em>あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。
<em>2:8</em>しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。
<em>2:9</em>しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。
<em>2:10</em>なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
<em>2:11</em>たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
<em>2:12</em>だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。
<em>2:13</em>あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。
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<em>2:14</em>わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
<em>2:15</em>ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
<em>2:16</em>あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
<em>2:17</em>信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
<em>2:18</em>しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。
<em>2:19</em>あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。
<em>2:20</em>ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。
<em>2:21</em>わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
<em>2:22</em>あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
<em>2:23</em>こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
<em>2:24</em>これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
<em>2:25</em>同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。
<em>2:26</em>霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。
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<div class="chapter" id="3">
<h3 class="chapter">第3章</h3>
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<em>3:1</em>わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
<em>3:2</em>わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。
<em>3:3</em>馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。
<em>3:4</em>また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。
<em>3:5</em>それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。
<em>3:6</em>舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
<em>3:7</em>あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。
<em>3:8</em>ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。
<em>3:9</em>わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。
<em>3:10</em>同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。
<em>3:11</em>泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか。
<em>3:12</em>わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。
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<em>3:13</em>あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。
<em>3:14</em>しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。
<em>3:15</em>そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。
<em>3:16</em>ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。
<em>3:17</em>しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。
<em>3:18</em>義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。
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<div class="chapter" id="4">
<h3 class="chapter">第4章</h3>
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<em>4:1</em>あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
<em>4:2</em>あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。
<em>4:3</em>求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。
<em>4:4</em>不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
<em>4:5</em>それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。
<em>4:6</em>しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。
<em>4:7</em>そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。
<em>4:8</em>神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。
<em>4:9</em>苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。
<em>4:10</em>主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。
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<em>4:11</em>兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。
<em>4:12</em>しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。
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<div class="para">
<em>4:13</em>よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
<em>4:14</em>あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。
<em>4:15</em>むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。
<em>4:16</em>ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。
<em>4:17</em>人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。
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<div class="chapter" id="5">
<h3 class="chapter">第5章</h3>
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<em>5:1</em>富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。
<em>5:2</em>あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、
<em>5:3</em>金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。
<em>5:4</em>見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。
<em>5:5</em>あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。
<em>5:6</em>そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼は、あなたがたに抵抗しない。
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<em>5:7</em>だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
<em>5:8</em>あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。
<em>5:9</em>兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
<em>5:10</em>兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
<em>5:11</em>忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。
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<em>5:12</em>さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。
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<div class="para">
<em>5:13</em>あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。
<em>5:14</em>あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
<em>5:15</em>信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
<em>5:16</em>だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。
<em>5:17</em>エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。
<em>5:18</em>それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。
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<em>5:19</em>わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、
<em>5:20</em>かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。
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